最近「お盆玉」なんて言葉が一般的になって来たが、お金が有り余っているじじばばが、孫の喜ぶ顔見たさに始めたことなのだろう。
私としては、それが当たり前の習慣になる前に廃れて欲しい文化だと思う(笑)
今回はそんな「お盆玉」も含めて贈り物全般に対する私の考えをまとめてみた。
贈る側と贈られる側のすれ違い
「贈り物」と聞いて、思い出すのは祖母のことだ。
祖母は人に何かしてあげるのがとても好きな人だった。しかし、逆に「〇〇してあげてもお礼も言わない」と良く愚痴もこぼしていた。私はいつも「それは違くない?」と思って聞いていた。
また、親戚にもこんな人がいた。
私が就職して数年「就職〇周年おめでとう」と毎年贈り物をしてくれる人がいた。今思えば純粋な好意だったのだろうけど、「ちょっと怖くない??」と言う気持ちと、変なプライドが邪魔をして素直に「ありがとう」と言えず、「もう毎年要らないよー」と冷たく返してしまった。
すると逆鱗に触れてしまい、「お前の息子は礼もまともに言えないのか!」と母に怒りの電話が入った。今となっては苦い思い出である。
こうした経験もあって、私は「贈り物」を純粋な気持ちで贈ったりもらったりするのが怖い時期があった。
「贈り物」は、する側の気持ち
「贈り物」は、する側から相手への純粋な“気持ち”で無ければならないと思う。
「喜んでもらいたい」という気持ちは最低限許せるが、「喜ぶかどうか?」は相手の気持ちであって、喜ぶことを期待してはいけない。増してや「お礼」や「感謝」を望むのは間違いだと思う。
贈り物をするなら「私がどうしてもやりたいからやる」くらいの気持ちでして、贈ったあとはサラっと忘れてしまうのが理想的だ。(相手があまり気を使わないように、という気遣いもあったら更に良い。)
ちなみに私はそう努めている。…実際はめっちゃ覚えているが(笑)
もらう側の葛藤
逆にもらう側は出来るだけ素直に受け取って、自然に「ありがとう」と言えるのが一番良い。
まあ、これは多くの人が出来ている事だろうけど、私の場合は「どうお礼をすれば失礼にならないか?」とか考えて息が詰まってしまう。
特に微妙な関係の親戚から、娘にお年玉やお盆玉をいただいた時はとても困る。
こんな性格なので「ほら、『ありがとう』って言いなさい」と娘に言うことは出来ず、結局、私が微妙な表情で「ありがとうございます」と伝えてその場をやり過ごす、みたいなことがあった。
幸い、娘は素直に「ありがとう」が言える子に育ったので、そこは助かっている。
贈り物の本質とは
もしかすると、私のように「贈り物」に対して、気遣いを通り越して“気疲れ”するタイプの人間も世の中には多くいらっしゃるのではないだろうか?
そういう人間は「贈り物」を「有難迷惑」と感じることがある。(もちろん素直にもらって嬉しい物もあるので難しいが…。)
祖母や親戚のように「お礼が無いなんておかしい!」と思っている人には、きっと気付いてもらえない息苦しさが実際にある。
ただ、どちらが正しいという話ではない。怒っている人も同様に息苦しさを感じているのだろう。
理想は人間関係とかマウントとか全部取っ払って、純粋な気持ちで「どうぞー」「ありがとー」で完結すれば良いと思う。
お互いにそういった気持ちであれば、変な気遣いや気疲れもなく、世の中に感謝の輪が自然に拡がって行く…と、こじらせオジサンは思っている。(笑)
⛄今日の繊細さんメモ
– テーマ:「贈り物」の贈り方・受け取り方
– 気づき:“気遣い”を通り越しすと“気疲れ”になる
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